『空蝉の博打稼業』
多摩の里山もすっかり真夏の暑さに見舞われ、蝉の声が我が世の夏を謳歌している。蝉時雨が熱風と共に愁思符庵を包み込んでいるのだ。
庵と云えば木立に囲まれ、苔むした茅葺き屋根の、静寂漂う山奥の小屋を思われようが、どっこい、小屋は小屋でもおそらくは昭和30年代の文化住宅、ちょっと昔はそこら中に見かけた小家である。折角の瓦屋根を、雨漏りを機に大家がトタン屋根にしたおかげで、日当たり抜群の屋内は50度にも達する温室。とても人間が居つづける所では無い。
しかし、そこをパンツ一丁でしたたる汗をものともせずに過ごすのが、博打屋の正しい週明けの過ごし方なのだ。
「ふるさとダービー函館」の準決勝メンバーを見渡し、翌日の決勝へのシミュレーションをする。と同時に新聞、史料でゴミ部屋と化した我が書斎の大掃除に取り掛かる。さらに、洗濯にも着手。思うに任せぬ結果となった土日の翌月曜は、大旨、こうした身辺整理と残業の準備に追われる。
「貧困からの逃避」としては、無心に身体を動かし汗を流すことが一番の療法である。
「あの〜、お邪魔いたします」
庭先で掃除機のゴミを出していたら背後から声がする。振り返るとなんとも言えぬ若い美女。見覚えがある。中年女性と組んで先日もやって来た。忙しいのを理由に断わったのだが、嫌な顔ひとつ見せず小冊子を置いて帰って行った。「めざめよ!」「人生の目的は何ですか」パンフレットにはそうあった。
某宗教団体の布教活動であることは知っていた。それにしても恐ろしく美人なのだ。その美女が再び現れた。
「定年を迎えられて、何をして良いのか迷ってらっしゃる方が多いようです。そのような方に読んで頂きたくて。私どもが何かお役に立てましたなら・・・」
これほど美しい女性に、これほど微笑みをもって話し掛けられたことは記憶に無い。
「お金だけを手にされても、それが人生の目的ではないでしょう。人生にはすばらしい目的もあるので・・・」
ドア越しなら断わるものを、庭先の立ち話し、敵も手強い。どうやら、月曜の昼下がり、中年男が庭先で旧式の掃除機のゴミをかき出しているのを見て、小銭くらいは手にしたが、有り余る時間をどう過ごしてよいか分らない、団塊世代のサンプルとでも思ったらしい。後ろの中年女性もにこやかに相づちを打つ。
「あたしゃ、30このかた仕事なんぞしたことがなくてね。恥ずかしながら、お金だけが目的の生き方をしてるんですよ。でもね、まだこれが目的だったんじゃない、と後悔する程のお金を手にしたことがないんです。ですから、あなた方の御好意にはまだ及ばなくても・・・」
後ろに控える中年女性がいなければ、「もう少しお話を、いえ、オジサンの人生は貴方に巡り会う為にあったのかも知れない・・・」などと口走ったかも知れないなと、これまた嫌な顔一つ見せず立ち去る二人を見送ったのだ。
足下をふと見れば、力尽きた蝉の亡きがらが転がっている。数年も地中で過ごし、地上では一夜の命。それに比べ、人生の目的を知るには、人間には十分の時間が与えられているではないか。
後生大事に溜め込んだ新聞、史料、古雑誌。一切を処分した今週。すべてが、いざ、と云う時の為だったが、人生には自分が待ち望んでいる「いざ」は永遠に来ないものだろう。
博打屋にとって、いざと云う時に溜め込んでおかねばならぬのはお金だけだ。今週はしみじみそれを感じている。
