『9歳悲話』
『おかあさん』
「おかあさんは どこでもふわふわ ほっぺは ぷにょぷにょ ふくらはぎは ぽよぽよ ふとももは ぼよん うでは もちもち おなかは 小人さんが トランポリンをしたら とおくへとんでいくくらい はずんでいる おかあさんは とってもやわらかい ぼくがさわったら あたたかい 気もちいいベッドになってくれる」
六本木アマンド横の坂道を下りながら競馬会のあるお洒落なビル群の通りを歩く。
博打場のない山手線の内側などめったに歩くことはない。
春最中の華やいだ人の群れが息苦しくもある。
何時から日本人は首からカードをぶら下げる事が当たり前になったのであろう。
昼休み近い時間だが、ビル界隈を闊歩する人種は一様に身分証をぶら下げ、ついでに携帯もぶら下げている。
そんな風景の中に居る自分が如何にも不似合いに感じるのは、もはや時代の空気を読めない人間になってしまったと言うことか。
取り壊しの囲いに晒された丸源第12ビルを見ると、自分の若き日の墓標にも思える。
このビルでクラブをやっていた知人の店によく来たものだ。
原宿で真っ赤なオープンかーを乗り回していた頃だから浦島太郎だ。
競馬会の所用を済ませ、ひとつ博打屋もヒルズの空気を吸うべや、とオープンカフェのテーブルでコーヒーを飲む。
ちょっとした麻布の旦那のコーヒータイムに見えたはず。
が、心は「9歳の悲話」で些か痛んでいた。
手元の新聞に載っていた冒頭の詩は、1日八戸で30歳の母親の手で絞殺された小学4年、9歳の男の子がコンクールで佳作入選した詩だ。
母親のからだをこんなに感性豊かに表現出来るとは素晴らしい。
こんな子供を何故?
時代の空気に馴染めば、これも理解出来る事なのか?
今一人の9歳は「赤い靴」の女の子「きみちゃん」だ。
「赤い靴 はいてた 女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった」
野口雨情の詩は有名だが、麻布にこの女の子「きみちゃん」の像が在ることは、この界隈を遊び馴れている人以外知るまい。

もっとも平成元年に地元商店街によって建てられたものだから古くはない。
明治35年生まれのきみちゃんは3歳の時に母親の岩崎かよの手を離れ、アメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女となった。
母かよは再婚相手と北海道開拓地に入る事になり、その過酷な環境から苦渋の選択として、我が子を手放した。
失意の果てにかよ夫妻は札幌に引き上げ、夫か勤めた小さな新聞社の同僚だった野口雨情と親交を深め、やがて手放したきみちゃんの話をしたことからこの詩が生まれた。
しかし、母かよはきみちゃんの末路を知らずに死んでいく。
「今では青い目になっちゃって異人さんのお国にいるんだろう」
詩の中のきみちゃんを信じていたと言う。
しかし、事実はもっと哀しい。
帰国するヒュエット夫妻に育てられていたきみちゃんは当時不治の病結核に冒され、渡米の長旅には耐えられなかった。
余儀なく孤児院に預けられたきみちゃんは、やがて9歳の薄幸の生涯を終える。
明治44年9月15日の夜だったと言う。
3歳で母きみと別れ、6歳で育ての親と別れ、孤児院の片隅で病魔と闘い、熱にうなされ、母の名を呼んだであろうきみちゃんを想い、麻布の人々が、孤児院のあったこの地に、きみちゃんを甦らせた。
「きみちゃん」像は生まれ故郷の清水市日本平、横浜の波止場、母かよが入植した北海道留寿都村にもあるそうだ。
麻布十番商店街編の案内に詳しい。
しばし、感傷に耽った博打屋は我に戻り立川に急いだ。
準決勝、昨日先行して自分の持ち味を確認した須賀和彦の走りが興味の焦点だ。
明日の決勝の為のマーケティングだ。
須賀はやはり先行して立派に機関車の役を果たし3着。
さて、明日の決勝は。
帰途、以前紹介した立川大衆劇場。

大荒れの準決勝ですっかり毒気を抜かれ、トボトボと帰途を急いだ。
そろそろ競馬モードに切り替えだ。
今を豊か、平和と言わずして、どの時代を肯定できよう。
しかし、今が歴史を超越してベストであるかなんて、誰に言い切れようか。
