『ホースマン逝く』
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
1694年5月11日、故郷伊賀に向かった芭蕉は、見送りに来た門人たちと川崎宿のはずれの茶屋で別れを惜しんで詠んだのがこの句である。
川崎競馬の帰途、駅近くの通りにその案内板を見かけた。
この年は「おくのほそ道」の旅から帰り3年目であり、清書版がまとまった年でもある。
今で言うなら出版記念の年であった。
この川崎宿での別れの句は、芭蕉の不帰を暗示していたのであろう。
この年大阪で不帰の客となったのである。
51歳の秋であった。
その11日、東京競馬場ではNHKマイルCが行われた。
その夜、ゴスホークケン(12着)の応援で上京後、門別の牧場に帰った天羽禮治氏から、オーナー藤田与志男氏の訃報を聞いた。
すでに亡くなっていたのだが、週末の競馬を控え秘されていたと言う。
マルターズの冠名の方が馴染みが深いかも知れない。
外国馬で日本の競馬に新風を吹き込んだホースマンだ。
日本のフジタと、外国では名の知れた人だった。
事実、外国に20頭、国内に20頭の繁殖を抱える大馬主であった。
G1出走に馬主はおろか夫人まで姿が見えないので、闘病中を知っていた博打屋は気になっていた。
病院から抜け出し中山に来たと言う氏と言葉を交わしたのが一月前。
それが最後になろうとは。
日本の競馬について、一家言ある馬主であった。
奇しくもこの日、パドックでのゴスホークは、買う予定のなかった博打屋の目に止まった馬だった。
4コーナーを楽に逃げるのを見た時、「2歳王者復活」の見出しまで脳裡によぎったのである。
しかし、渋った馬場はピタリとゴスホークのスピードを奪った。
思えば、病魔に破れたオーナーの命の炎が途切れたかの如くにだ。
「ゴスホークの単勝をこれで買ってくれ。当たったら梶山と3人で山分けだ」
事情を知っていた天羽氏は博打屋の知人に1万円預け、主無きスタンドで一人ひっそりとレースを見守り競馬場を後にしたそうだ。
藤田氏享年67歳、天羽氏65歳。
生産、育成を通じ少なからぬ縁をもった人には言葉にならぬ虚しさがあるたろう。
深夜博打屋に電話をしてくる男のやるせなさが博打屋の胸を打つ。
ぶり返した寒さの月曜日(12日)、故人と交わした様々な時間を振り返りながら、数少なくなった日本のホースマンを憂うばかりだ。
トレードマークのキャップをかぶり、氏は何処の競馬場を訪ね歩いているのだろう。
馬券と言う競馬を支える原点を忘れない人が居なくなった寂しさを思うばかりだ。
「たてがみを たよりにつかむ 別れかな」
合掌。
